米軍機や航空自衛隊機を中心に撮影して来た私であるが、実は隠れ陸自ファンでもある。それは父親が陸自航空にいた影響でもあるが、軍用ヘリが好きで、低空でバリバリと敵陣に向かっていくヘリを見るとつい興奮してしまう。フランシス・コッポラ監督の戦争映画「地獄の黙示録」の名シーンの一つ、ワグナーの「ワルキューレの騎行」をスピーカーで大音響で流して、ベトコンの基地を急襲する第1騎兵師団 第9航空騎兵連隊のUH-1とOH-6の描写は、何度見ても飽きないのである。また敵を殲滅することよりサーフィンを楽しむ事を優先する変な大隊指揮官 ビル・キルゴア大佐(俳優ロバート・デュバル)も面白い。ベトコンの拠点を襲撃する際の「ダンスのお時間だ、ボリュームを上げろ」「朝嗅ぐナパームの臭いは格別だ」「ニュージャージーの山男にサーフィンが判るか!」など名セリフ、如何にもアメリカの古い軍人に居そうな人物だ。反戦映画なのでベトナム戦争の矛盾をこうした場面で表現したのだろうが、映画としてもとても面白かった。映画に出てくる主役の武装UH-1は二つ窓のH型が多かったようだが、アメリカでH型の配備が始まるのは1967年からなので、ベトナム戦初期では主力は大きい窓一つのB型であったはずだ。このB型の時代に武装キッド(M60C機関銃や7発のロケット弾ポッド)を付けた本格的な武装ヘリの運用が始まっている。これが将来の専用武装ヘリに繋がっていくのだ。

私が写真を始めた1976年(昭和51年)頃の陸上自衛隊航空部隊には既にH型が配備されていたが、地方の方面ヘリコプター隊にはB型もまだまだ存在していた。しかし、航空祭などで偶に撮影する程度で、あまり撮っていないのが残念である。この頃自衛隊ではHU-1B/Hと呼んでいたが、米軍も昔はそう呼称していた。米軍は軍用機命名規則変更で1962年9月にUH-1に変更したが、30年経ち陸自でも米軍に歩調を合わせ?、1992年4月以降にユーテリティヘリ(多用途ヘリ)としてUH-1が正式名称化されたのである。
↑ 沖縄の那覇に駐在していた第一混成団のUH-1B。胴体には、第一混成団を意味する”IB”が書き込まれている。Bはブリゲード/旅団を示す、英語表記では"1st Combined Brigade"(UH-1B/41555),この機体もホイスト付である。
大学入試が終わり、直ぐにアルバイトで手にしたのが、一眼レフカメラ(キヤノンEF)と望遠レンズだった。横田基地や厚木基地を訪問する前に、幼少の頃御袋に手を引かれて何度か行った立川基地(駐屯地)に立ち寄った。カラーネガで数枚しか残っていないが、UH-1Bが盛んに飛行していた。UH-1B/41560
↑ 1977年夏に訪問した高遊原分屯地の整備格納庫で見かけたUH-1B/41531。北熊本飛行場から阿蘇山に近い新設の高遊原分屯地に移転してきた西部方面航空隊の格納庫には、LM/OH-J1/L-19等を見る事が出来たが、UH-1は、目達原駐屯地に本拠地を置いていた為、ここ高遊原では貴重な存在だった。41531号機は、ホイスト付の機体である。
↑ これも珍しい第11師団所属のUH-1B。北海道の4個師団には特別にUH-1Bが配備されていたものである。UH-1B/41541
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↑ これまた貴重な松野氏撮影の写真。UH-1Bの最終生産号機UH-1B/41590である。
↑ 救助等の際に人員等の引き上げに使われるホイストと呼ばれる器具が機体の右上部についている。UH-1B/41550
Wings
第一混成群は、1972年(昭和47年)3月に北熊本で編成され、同年10月の沖縄本土復帰に合わせ那覇駐屯している。この沖縄専用の3色カラーを考案したのは、西部方面航空隊にいた佐藤2佐で、日差しが強く、また洋上を飛ぶことの多い任務に合わせて考案されたものであった。(UH-1B/41536)
↑ 1977年百里基地に展示されたUH-1B/41517。陸上自衛隊では、このB型を90機導入していた。(41501~41590)当時は白い大きな文字で機首にも番号が書かれていたので何号なのか、一目で判った。